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滝尾山城


   

   

   

   

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読み・・・たきおやまじょう

所在地・・・栃木県鹿沼市西沢町(旧鹿沼市)

別称・・・下南摩城

築城年・・・不明(新城は1574〜76年)

築城者・・・不明(新城は南摩秀村)

主な城主・・・南摩氏


高木讃岐と赤見広孝

 滝尾山城に関しては、『南摩村郷土誌』の中に「下南摩古城跡略記」があり、滝尾山城に関する歴史が載っている。以下はその意訳。

 下南摩には、高木讃岐という者がいた。高木讃岐は主君の皆川氏との関係が不和となったため、強い者に頼るべく、仏神に祈ってその者が現れるのを願っていた。
 高木讃岐は佐野盛綱にそのことを話すと、赤見内蔵介広孝の名が挙がった。
 赤見広孝は、曾祖父が藤原忠武といい、剣術修行で赤見へ立ち寄った際に足を痛めてしまって、そのまま赤見に住み続けた。以後、武定(「赤見」と改姓)、武広と続き、広孝と続く。
 広孝は父を10歳で亡くした後、13歳で佐野盛綱に取り立てられて家臣となった。そして25歳の時に佐野盛綱によって高木讃岐と会い、広孝は滝尾山の件を引き受け、その翌年(1510年)に広孝は滝尾山へと入った。広孝が滝尾山へ入るにあたり、高木讃岐はその筆頭家老であったが、佐野盛綱は別に竹沢淡路資冬と高野上総介を家老として広孝に付け、赤見広孝は姓を「南摩」と改めた。こうして南摩家は佐野家に属した。

南摩家の戦

 広孝が滝尾山に入った後の「下南摩古城跡略記」の内容は、広孝に子供が生まれ、佐野盛綱が亡くなり、広孝が亡くなり、広孝の跡を子の秀孝が継ぎ、秀孝に子供が生まれ・・・と、戦時の様子はない。広孝が滝尾山に入ってから40数年、平穏に過ごしてきた南摩家にも、突然戦の匂いがしてくる。

 弘治年中(1555〜58年)に壬生氏が皆川氏を攻めようと行動を起こした。壬生氏は南摩秀孝の元へ使者を送り援軍を要請する。この時、秀孝は70騎を率いて壬生氏に味方したが、結局壬生氏の皆川攻めは行われなかった。壬生氏に味方するに当たり、秀孝と家臣との間で話し合いが行われ、壬生氏の皆川攻めには味方するが、壬生氏が佐野氏をも攻めてしまった場合は佐野氏に味方することが決められていた。
 その後、元亀3年(1572年)には北条氏が唐沢山城へ攻めてきた。この時の南摩氏の当主は秀孝の子の秀村21歳。秀村はこの時の戦が初陣であったという。秀村は家臣50人を率いて唐沢山城へと向かい、北条軍の攻撃を防ぐことに成功した。

 もっとも、「下南摩古城跡略記」内での、弘治年中の壬生氏の行動、元亀3年の北条氏による唐沢山城攻めの内容の真偽の問題はある。
 それでも、壬生氏が佐野氏を攻める動きの際は、佐野氏が攻撃されるまで想定して話し合いが行われている様子などは、南摩家の佐野家に対する忠臣ぶりが見事に描かれていて面白い。
 また、「下南摩古城跡略記」の中で南摩家が実際に戦っている戦は、元亀3年の対北条戦による秀村の初陣だけである。


壬生氏に従う

 元亀3年(1572年)の北条軍との戦い後から、「下南摩古城跡略記」の記述に緊迫感が出てくる。

 1574年8月から、滝尾山の絶頂を切り開いて新しい城を築く工事が始まった。ところが同年12月、壬生氏の使者がやって来て臣従するよう迫ってきた。この時、南摩家は拒否の回答を出す。
 新城の築城が進みながらも、壬生氏の脅威が迫ってきた時、1575年から南摩秀村は病気になってしまい、次第に重くなっていく。
 滝尾山の新城が完成しつつあった1576年春、秀村の治療は万策尽き、家臣達は涙を流していた。そういうところに、壬生氏の使者が再びやって来て臣従を迫った。家臣達の間でどう返答するかについてを話し合っている間に秀村は病死。秀村の死によって、壬生氏の使者の圧力が増し、南摩家はどうすることもできず壬生氏に臣従したという。


<現在の状況>

 「招魂社」の北にある遺構が非常に良く残っている。その場所からさらに北にある山頂部にも遺構が残る。
 招魂社のすぐ北の遺構と山頂の遺構、両者はやや距離があるが、その間にある四重の堀切が一番の見どころと言える。


<あわせて読みたいページ>


 「鹿沼城」壬生氏の居城。

 「竹ノ内」滝尾山城の南西にある史跡。

滝尾山城の所在地→