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館林城


   

   

 

読み・・・たてばやしじょう

所在地・・・群馬県館林市城町

別称・・・尾曳城

築城年・・・1556年

築城者・・・赤井照康

主な城主・・・赤井氏、長尾氏、榊原氏、松平氏、徳川氏、松平氏、太田氏、井上氏、秋元氏

 

上杉謙信の関東進出

  1560年、上杉謙信は初めて関東に進出した。この時、館林城の赤井照景(照康の子)は、小泉城の富岡氏とともに古河公方に属して、謙信には従っていない。謙信は帰国の際、古河に上杉憲政を置き、由良氏・桐生氏・佐野氏らに救護の命じていた。だが、佐野昌綱はこの命に背いて古河を攻めた。
 1561年末、謙信は佐野昌綱の動きで再び関東に進出した。厩橋に着いた謙信は、長尾氏・由良氏・富岡氏を動員して1562年の正月、館林城を攻め落とし、赤井照景を武蔵の忍に追いたて、館林を長尾政長に与えた。
 1566年、箕輪城が武田信玄に攻略されると、由良氏・長尾氏・富岡氏は北条方となり、上杉家家臣である厩橋の北条(きたじょう)高広さえも北条方となって、東上野における謙信の地盤は崩壊しつつあった。しかし、武田家と北条家の同盟が破壊されると、北条家と上杉家は接近し始め、1570年には講和が成立した。
 北条氏康の死にともない、北条家と上杉家は再び交戦状態となった。謙信は1574年から75年にかけて上野に再度出陣し、北条方の城を次々攻略した。謙信の勢いは、下野・武蔵にもおよんだが、館林城の長尾顕長(景長の養子)は城を出ず、防御の構えをとっていた。
 1584年、北条家の策略で長尾顕長とその兄である由良国繁(
金山城主)は、それぞれ城を失った。そして、館林城には北条氏規が入った。
 

小田原攻めと徳川家康

 1590年、豊臣秀吉による小田原攻めに際し、石田三成は館林城を攻めた。三成は大袋山の木を切り出し、それを城沼に投げ入れた。狙いは、これによって、二筋の攻撃路ができ、夜明けとともに一挙に城に突入しようということだったが、不思議なことに、夜明けになってみると、その二筋の攻撃路は水底に沈んで跡形もなくなくなっていた。
 小田原攻めの後、関東に徳川家康が入った。この時、徳川四天王と呼ばれた榊原康政が10万石で館林城に入り、長尾時代に未完成だった城下町を完成させるなどした。

 

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