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飯野城
読み・・・いいのじょう
所在地・・・群馬県邑楽郡板倉町飯野
築城年・・・不明
築城者・・・不明
主な城主・・・淵名上野介
淵名氏について
戦国時代、飯野城には淵名上野介がいた。
淵名氏について調べてみると、藤原秀郷の子孫が淵名氏を名乗っている。
藤原秀郷-千常-文脩-兼光-頼行-兼行と、兼行が淵名氏を称し、淵名兼行、あるいは淵名大夫と称した。そして兼行の子成行が、藤原姓足利氏の祖となる。
また淵名氏は、同じく藤原秀郷の子孫で藤姓足利氏の子孫でもある赤堀氏から出たとも言われている。
ちなみに「淵名」の地は現在の群馬県伊勢崎市である。「赤堀」も伊勢崎市。飯野とは別の地にいた、藤原秀郷の子孫である淵名氏が、飯野に移住したきたのであろうか。
淵名上野介、館林城を守る
飯野城の淵名上野介は、館林城の長尾顕長が北条氏によって小田原にて抑留された際、白石豊前守と共に館林城を守っている。
では、長尾顕長が抑留されたのは一体いつのことであろうか。1584年12月と1583年9月頃、2つ可能性がある。
まず1584年12月。
同年1584年5月から7月にかけて、現在の栃木県栃木市藤岡付近で、「沼尻の合戦」が行われた。
沼尻の合戦は、北条氏と佐竹義重・宇都宮国綱を中心とする反北条氏の連合軍による戦いであり、大きな戦闘がないまま、長い対陣の末に講和が成立した。
この直後の8月、北条氏は館林城の長尾顕長と金山城の由良国繁を攻撃するも、城を落とせず撤退する。長尾顕長と由良国繁の兄弟は、沼尻の合戦前は北条氏側であった。それが、沼尻の合戦の際には、反北条氏側となっていた。
そして12月、再び北条氏は館林城と金山城を攻撃。北条氏は計略によって長尾顕長と由良国繁を拘束すると、小田原へと連れていった。この時に家臣達が城を守っており、長尾顕長と由良国繁の開放を条件に、1585年1月、館林城と金山城は北条氏へ明け渡された。
もう一方、1583年9月頃。
同年9月、厩橋城が北条氏の支配下に入った際、そのお祝いとして長尾顕長と由良国繁が北条氏の元へ出向いた。北条氏は両者に対し、館林城と金山城の明け渡しを要求した。北条氏は両城を宇都宮氏や佐竹氏攻めの拠点にしようとしたのであるが、長尾顕長と由良国繁は要求を拒否した。そのため、北条氏は長尾顕長と由良国繁を小田原へ連行したという。
この説では、これ以後、館林城と金山城は城主不在のまま、家臣達で城を守っていたことになる。
開城後、長尾顕長は足利へ、由良国繁は桐生へと、それぞれ移った。
<現在の状況>
飯野城跡は田畑となっている。
<あわせて読みたいページ>
「館林城」城主長尾顕長が不在の際、飯野上野介が守った城。
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