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館林城


   

   

読み・・・たてばやしじょう

所在地・・・群馬県館林市城町

別称・・・尾曳城

築城年・・・1556年

築城者・・・赤井照康

主な城主・・・赤井氏、長尾氏、榊原氏、松平氏、徳川氏、松平氏、太田氏、井上氏、秋元氏


上杉謙信の関東進出

 1560年、上杉謙信が初めて関東に進出した。この時、謙信は関東の諸将の多くが謙信に従ったが、館林城の赤井照景は従わずに北条氏に属した。
 謙信が1561年11月に再び関東へ出兵した際、翌1562年2月に館林城攻めて落城させて赤井照景は城を出た。落城後の館林城に、謙信は足利の長尾景長を城主とする。
 1566年、箕輪城が武田信玄に攻略されると、由良氏・長尾氏・富岡氏は北条方となり、上杉家家臣である厩橋の北条(きたじょう)高広さえも北条方となって、東上野における謙信の地盤は崩壊しつつあった。ところが、武田家と北条家の同盟が破壊されたことから、北条家と上杉家は接近し始め、1570年には講和が成立している。
 北条氏康の死にともない、北条家と上杉家は再び交戦状態となった。謙信は1574年から75年にかけて上野に再度出陣、北条方の城を次々攻略した。謙信の勢いは、下野・武蔵にもおよんだが、館林城の長尾顕長(景長の養子)は城を出ず、防御の構えをとった。
 1584年、北条家の策略により、長尾顕長とその兄である由良国繁(金山城主)は、それぞれ城を失った。顕長に代わり、館林城には北条氏規が入った。

小田原攻めと徳川家康

 1590年、豊臣秀吉による小田原攻めに際し、石田三成は館林城を攻めた。三成は大袋山の木を切り出し、それを城沼に投げ入れた。狙いは、これによって、二筋の攻撃路ができ、夜明けとともに一挙に城に突入しようということだったが、不思議なことに、夜明けになってみると、その二筋の攻撃路は水底に沈んで跡形もなくなくなっていた。
 小田原攻めの後、関東に徳川家康が入った。この時、徳川四天王と呼ばれた榊原康政が10万石で館林城に入り、長尾時代に未完成だった城下町を完成させるなどした。



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