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館林城



譜代大名の藩

 榊原氏は、康政、康勝、忠次(11万石)と続き、1643年に陸奥白河に転封すると、館林領は一時天領となった。
 1644年、遠江浜松から老中松平乗寿が6万石で館林城に入り、その跡を継いだ乗久が1661年に下総佐倉に転封。
 松平乗久の後は、4代将軍徳川家綱の弟綱吉が10万石の加増を受け25万石で入封した。1680年に綱吉が家綱の養子になって5代将軍になると、その子徳松が家督を継いだが、1683年に徳松が急死してしまい廃藩、再び天領となった。この時に城は壊されている。
 1707年、松平清武が2万4000石で入封し、1710年には1万石加増、1712年には2万石加増されて5万4000石となった。その後、清武の跡を養子の武雅、武雅の跡を養子の武元が継ぎ、武元が家督を相続した日に陸奥棚倉へ転封、同地から太田資晴が5万石で入封した。
 若年寄の太田資晴は1734年に大坂城代となったことから、そのため館林領は再度天領となり城番を置いた。
 1740年、太田資晴の子資俊が5万石で入封するも、1746年に遠江掛川に転封となり、太田資俊の後は陸奥棚倉より松平武元が5万4000石で入封した。
 松平武元は1769年に7000石の加増を受けて6万1000石となった。武元の後は、武寛、斉厚と続いて、斉厚は1836年に石見浜田へ転封。
 松平斉厚の後は井上正春が6万石で陸奥棚倉より入封し、1845年には遠江浜松へ転封。井上正春の後は、出羽山形から秋元志朝が6万石で入封した。
 秋元志朝は、1862年に雄略天皇陵の修理した。修理が終わったのは1864年で、その時は養子の礼朝が襲封している。礼朝は戊辰戦争時、新政府軍に加担、関東・東北方面の戦争に部隊を派遣した。
 館林藩は1870年に廃藩して館林県となった。


<現在の状況>

 復元された三の丸門、土橋門は見事。また、本丸跡に残る土塁も良い。


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