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笠間城



譜代大名の城

 1590年、豊臣秀吉による小田原攻めの際、笠間氏の参陣が問題となった。主家である宇都宮氏は、笠間氏に代わって玉生高宗を笠間城に入れた。玉生氏は宇都宮一族だという。玉生氏は、宇都宮氏が所領を没収された際に同じく所領を失っている。
 1601年、松平康重が武蔵騎西から3万石で入封し、康重は1608年に丹波篠山へ転封した。ちなみに笠間藩の領域は、笠間氏の領地であった範囲である。
 松平康重の後、下総佐倉から小笠原吉次が3万石で入ったが、翌1609年に改易となってしまう。吉次の改易後、笠間藩は幕府の直轄地となり、大河内金兵衛の支配下に置かれ、下館藩主の水谷勝隆と旗本の本堂茂親がそれぞれ城を預かった。
 1612年、下総古河から松平康長が3万石で入封。この康長の時に大坂の陣が起こって康長は活躍して1616年に上野高崎へ栄転すると、代わって笠間藩には永井直勝が下総小幡から3万2000石で入った。
 永井直勝は1619年に常陸国内で2万石が加増され、1622年に下総古河へ転封、その後、浅野長重が常陸真壁から5万3500で入封した。
 浅野長重の笠間入封により、真壁藩の領地が笠間藩へ吸収された形となった。これによって真壁藩は消滅する。浅野氏は、長重の子長直の2代にわたって笠間藩の藩主となり、城下町の整備に力を注いだ。長直が1645年に播磨赤穂へ移ると、続いて遠江横須賀から井上正利が5万石で入った(なお、浅野氏の期間だけ笠間藩は外様である)。
 井上氏は、正利、正任と2代続き、城の改築などを行った。1692年、正任が美濃郡上へ転封になると、松平宗資が4万石で新封し、後に1万石加増されて5万石となった。
 松平氏は、宗資、資俊と2代続いて、寺社の修復、再興などを手がけた。資俊は1702年に遠江浜松へ移り、代わって井上正任の子正岑が5万石で入る。
 井上氏は、正岑、正之、正経と続いた後に1747年陸奥平へ転封、その後には日向延岡から牧野貞通が8万石で入封した。

牧野氏時代

 牧野氏は、貞通、貞長、貞喜、貞幹、貞一、貞勝、貞久、貞直、貞寧と続き、明治を迎えた。
 貞通は京都所司代在職中に笠間藩主となり、貞長は寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中となって幕政に参加、また貞寧は最後の大坂城代となって大政奉還を迎えているなど、牧野氏は幕府の中枢に位置していた。


<現在の状況>

 石垣が美しい城であるが、東日本大震災によって笠間城は大打撃を受けた。今は石垣の仮修理後の姿を見られる。
 ちなみに写真の最後は、比較のために震災前の姿。


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 「宇都宮城」笠間氏の本家、宇都宮氏の居城。

 「川崎城」笠間時朝の父、塩谷朝業の居城。

笠間城の地図→