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真壁城


   

   

   

   

読み・・・まかべじょう

所在地・・・茨城県桜川市真壁町古城(旧真壁町)

築城年・・・1172年

築城者・・・真壁長幹

主な城主・・・真壁氏


真壁氏の没落

 真壁氏は桓武平氏の子孫である常陸平氏一族で、真壁氏の祖長幹(ながもと)は多気直幹の子である。長幹は比較的早い時期から源頼朝に接近したと考えられており、それによって長幹は地頭職としてこの地に勢力を確立していった。
 鎌倉時代、真壁氏は一族を領内に配置していったのだが、1299年に地頭職を没収され、その後執権北条氏の勢力が真壁氏の領内にも入ってくることになった。
 南北朝の動乱の時、当主は幹重で南朝方に味方したものの、北朝方の高師冬の攻撃にあい、立場を南朝から北朝へと変更した。そして1344年、室町幕府から地頭職を与えられている。
 足利尊氏は東国を統治する機関として鎌倉府を置いた。しかし、その鎌倉府は次第に幕府と対立を深めていくこととなった。幕府は東国に「京都扶持衆」を置き、この京都扶持衆は鎌倉府を牽制する役目を持っていたため、常に緊張状態にあったといえる。真壁氏も京都扶持衆の一人であり、京都扶持衆の小栗満重が反乱を起こして鎌倉公方足利持氏から攻められた際、真壁秀幹は小栗氏に味方した。そして1423年、真壁城は攻撃を受けて落城している。
 真壁城が落城したことにより、真壁氏の所領は没収され、代わって宍戸氏の勢力が旧真壁氏の所領に入りこんできたのであった。

所領の回復

 真壁城が落城した際、真壁秀幹は戦死したと考えられている。秀幹の子慶幹は落城後に剃髪して松永と称したが、その後行方不明となってしまった。秀幹の甥で朝幹が本領回復に乗り出し、1436年にその念願が叶った。そして朝幹は、慶幹(松永)の行方が分からぬまま家督を継いだようである。
 ところが1439年、秀幹の子で氏幹と名乗る人物が現れ、主だった家臣の後ろ盾のもとで所領の継承を求めて強入部してきた。家臣を二分する争いとなったが、この争いに朝幹は勝っている。

戦国時代の真壁氏

 周囲では様々な勢力が割拠し、真壁氏はその狭間に立たされていた。そんな中、佐竹氏が日に日に勢力を拡大していき、真壁氏もその影響を受けることになる。
 1561年、真壁久幹の子九郎に対して、佐竹義昭は義昭の「義」の一時を与えて義幹と改名させた。一見すると主従関係が結ばれていそうな行為ではあるが、一方で真壁氏は敵対関係にある近隣の小田氏と密約を交わすなど、自立的な動きも行っている。苦しい立場にあったのかもしれない。真壁氏はその後も佐竹氏と関係を強めていき、同盟者として佐竹氏の麾下として活動していった。
 やがて佐竹氏が豊臣家の大名となると、真壁氏は佐竹氏の家臣として知行地を与えられ、名実ともに佐竹氏の家臣となった。
 1600年、関ヶ原の戦いの時、佐竹氏は傍観の立場を採った。そのため1602年に所領替えを命じられて出羽へと移り、真壁氏も佐竹氏とともに出羽へ移った。



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