武茂城
読み・・・むもじょう
所在地・・・栃木県那須郡那珂川町馬頭(旧馬頭町)
築城年・・・鎌倉時代
築城者・・・武茂泰宗
主な城主・・・武茂氏、太田氏
三河大久保氏の祖
武茂氏の祖、武茂泰宗は宇都宮景綱(7代目)の子で、この武茂氏は多くの支族を輩出した家であった。その中でも有名な家は、徳川家康に仕えた三河大久保氏である。宇都宮氏の当主に
1380年、宇都宮氏と小山氏が戦い(「裳原の戦い」)、宇都宮氏の当主基綱(11代目)は戦死してしまう。基綱の跡を満綱(12代目)が継ぐも、満綱は子がいないまま亡くなった。持綱の死
宇都宮氏の当主となった持綱の時代には、「上杉禅秀の乱」が起こり、関東は再び乱れた。等綱の時代
宇都宮持綱が亡くなった時、子等綱はわずか4歳であり、しかも宇都宮を追われて各地を放浪する身となった。その際、等綱の後見をし、留守の宇都宮を預かったのは、祖父の武茂満家であった。宇都宮正綱と成綱
15代目の当主となった宇都宮明綱は、わずか21歳で亡くなってしまう。若くして亡くなった明綱には子がなく、再び後継者問題が起こった。佐竹氏の支配下に
さて、武茂成綱の弟兼綱によって再興された武茂氏であったが、武茂地方は那須氏、佐竹氏と接していた。この両勢力の抗争によって、次第に武茂地域は佐竹氏の領地となったようである。
那須資晴の武茂城攻め
1582年8月、那須資晴が武茂氏と戦い武茂城攻めを行った。以下は、『那須記』巻11「資晴武茂城責付東光寺縁起ノ事」の概略。
1582年8月2日、那須資晴は500余騎を率いて大桶に出陣した。武茂守綱・豊綱父子は、久那瀬に物見を出すと、資晴の旗を見つけ守綱に報告する。これを聞いた守綱は、200余騎の軍勢を従えて出陣し、その間に資晴の先陣は愛宕山に陣を取った。守綱は愛宕山に鉄砲を撃って攻め込むと、那須勢も鉄砲を撃った。両軍はしばらく矢を射合って戦ったが勝負がつかない。
資晴の後陣にいた大関・蘆野の200余騎は天神の森に陣取って町屋に火をかけた。町人たちは驚き、財宝を背負って逃げた。大関勢は追いかけて地蔵院に乱入し、代々の重宝、曼荼羅を奪い、仏具は分散した。守綱は愛宕山を豊綱に任せ、守綱自身が150余騎で駆け付けた。そして馬頭観音の前で大関勢と戦うが、守綱の先陣は敗れて逃げてゆく。北條守直が大関勢に向かって奮戦するも、情勢は変わらない。守綱はこのままでは味方が討たれると思い、山城の武茂城で防戦しようと退いた。
那須勢は武茂城の西から攻め寄せ、互いに鉄砲を撃ちあうが勝負はつかない。那須勢の先陣蘆野資泰80余騎が城の際まで攻め寄せ、鬨の声を上げると、城からは鉄砲を撃ち、石が落とされたことで、引き下がった。資晴は、鳥子・松野200余人が守綱に加勢したこと知り、退こうとしたところに、天神の森の方から鬨の声が上がった。資晴は守綱の援軍と思い、城から退いて援軍と戦った。守綱は200余人で城から打って出ると、那須勢を挟み撃ちにする。愛宕山の両軍は、その様子を聞くとすぐに引き、豊綱は守綱と1つの陣になって戦ったが、日が暮れて敵味方の判別つかず、引き下がってかがり火をたいた。
武茂氏家臣の星豊前は、資晴の陣所に忍び込んで資晴を討とうとしたが、「誰だ?」と敵に怪しまれた。星豊前は「夜回りの者」と答えると、大田原氏は「夜回りの者と言うが、誰の家臣だ?」と問う。星豊前は「福原の家臣」と言うと、そこにいた福原氏が、「我が家臣と言うが、誰だ?」と言ったことから、星豊前は姿を現すことができず逃げた。
福原氏は討ち取れと命じ、恩田民部掾と齋藤藤七郎が長刀を持って追いかけた。星豊前は引き返して戦い、齋藤藤七郎は頭上高く刀を振り上げておろすと、切先が木戸の柱にひっかかった。それを引こうとする齋藤藤七郎に星豊前が走り寄って首を取り、立ち上がろうとしたところに、恩田民部が星豊前の兜に打ちかかった。恩田民部はどうしたのか平打ちをし、星豊前は頭を強打して一時的に視界を失うも兜に異常はない。恩田民部の刀は弓のように曲がり、直している隙に星豊前は状態を取り戻して戦う。この星豊前の奮戦は、暗い中で敵も味方も分からない那須勢に同士討ちが発生した。大関氏が「松明を出して戦え、同士討ちはするな」と命じるも、混乱した兵達は聞く耳を持たない。
那須勢の混乱を見た武茂守綱は、300余人で一気に押し寄せて鬨の声を上げると、那須勢はますます混乱した。那須勢は退却して烏山へと退き、蘆野氏がしんがりを務めた。
那須勢の戦死者54人、負傷者は100余人。武茂勢の戦死者は47人、負傷者は134人。
星豊前は齋藤藤七郎の首を持参したことで、500疋の知行を賜った。
<現在の状況>
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