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那須氏の分裂〜上那須氏と下那須氏〜

はじめに

 那須氏は次第に勢力を拡大し、室町時代には下野国内において、宇都宮氏、小山氏と並ぶほどになった。ところが、15世紀はじめ、那須家は分裂し、上那須氏と下那須氏に分かれ、その状態は約100年続いた。
 

那須氏の分裂

 那須氏の分裂時期については諸説あるが、一般的には1414年と言われている。
 那須資氏の死後、その子資之と資重が対立し、資之が上那須氏、資重が下那須氏として分裂し、資之は福原城、資重は沢村城に拠った。
 真偽のほどは分からないが、1414年、資之の上那須氏が資重の沢村城を攻めたとの記録もある。
 

上杉禅秀の乱

 那須氏の分裂は、上杉禅秀の乱とも関わっている。
 上杉禅秀の乱とは、1416年、関東管領上杉禅秀(氏憲)が、鎌倉公方足利持氏を討とうと兵を挙げ、鎌倉を一時おさえることに成功、この事態に幕府は鎌倉公方を支持して形勢は逆転し、翌年上杉禅秀は自害した事件である。
 上那須氏の資之は、上杉禅秀の娘を嫁としていた(一方、下那須氏の資重は佐竹氏の娘を嫁にしている)こともあり、この上杉禅秀の乱においては、禅秀方についた。これに対し、下那須氏の資重は鎌倉公方方についたと思われ、ここでも両者は対立している。
 ちなみに、那須氏の分裂は、この上杉禅秀の乱をきっかけにして起こったという説もあり、15世紀のはじめには、那須氏が分裂していたことは確かであろう。
 
 

鎌倉公方の攻撃

 上杉禅秀の乱において、上那須氏は禅秀方、下那須氏は鎌倉公方(幕府方)についていたことは前述したが、禅秀の乱後、鎌倉公方は禅秀方についたものたちを次々と攻撃していった。
 その攻撃対象には上那須氏も含まれ、1429年、鎌倉公方足利持氏軍により、黒羽城(今の黒羽城ではない)が落城、福原城も2度の攻撃を受けた。
  

時々の和睦

 那須氏は上那須氏と下那須氏に分裂し対立状態にあったが、どうやら時々和睦したこともあったようである。
 例えば、資之(上那須)と資重(下那須)の和睦、氏資(上那須)と資実(下那須)の和睦、明資(上那須)と資持(下那須)の和睦というように、何かのきっかけで一時的に和睦をしている。
 だが、和睦をしたと言っても、それは那須氏の統一までには発展していない。那須氏の統一は、1514年とも1516年とも言われている。

 


上那須氏断絶

 上那須氏の資親には子がなく、白河結城氏から養子をもらった。この養子が資永である。ところが、資永が養子となった後、資親に子(資久)が生まれたため、資永の立場がなくなってしまった。
 1514年、資親が死去し、遺言として実子である資久に跡を継がせるよう、大田原氏に言ったという。これを受け、大田原胤清は、金丸氏、大関氏、芦野氏、伊王野氏らとともに資永の殺害を企て、蛭田ヶ原に陣を張った。この情報を知った資永は軍勢を集め、両軍は箒川を挟んで衝突するも、勝敗はつかなかった。
 死を覚悟して福原城に戻った資永は、山田城にいる資久を連れ出し、資久を殺害。そして資永自らも自害して果てた。翌日、大田原勢らは福原城を落城させるが、すでに上那須氏の後継者資久はこの世の人ではなく、こうして上那須氏は断絶した。
 上那須氏断絶後、下那須氏の資房が両家を統一し、こうして那須氏は100年ぶりに統一されたのである。



両家の居城

 最後に、上那須氏、下那須氏の居城について記しておきたい。
 上那須氏は、最初から一貫して福原城を居城としていた。
 下那須氏は、最初沢村城を居城とし、次に稲積城、そして烏山城へと移っていった。
 統一後の那須氏の居城は、下那須氏が統一したので烏山城である。