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二条城
読み・・・にじょうじょう
所在地・・・京都府京都市中京区二条城町
築城年・・・1602年
築城者・・・徳川家康
二条城の役割
二条城は、公武の儀礼の場として、また朝廷と諸大名に対して権威を示す役割を担っていた。
関ヶ原の戦い後、大坂城から伏見城に移った徳川家康は、1機内の大名たちに二条城の造営費を課し、1602年5月に工事が始まった。造営の総指揮は板倉勝重であり、家康が二条城に入ったのは1603年3月であった。
1603年3月27日、家康の将軍宣下が二条城で行われ、1605年4月16日には秀忠の将軍宣下が同じく二条城で行われており、二条城は親子二代にわたる将軍職世襲の舞台ともなった。
また、1613年には家康と豊臣秀頼の対面が二条城で行われている。
このように、二条城は徳川氏にとって重大な役割を持つ城だったのである。
二条城は公武の儀礼の場としての役割を持っていたが、大坂の陣ではその性格を変え、幕府の本営が置かれた。
そして、大坂の陣が終結すると、家康は大坂城から二条城に凱旋し、戦後処理を行った。
寛永行幸
1619年、徳川秀忠の娘和子の入内準備のため、伏見城から建物を移築して新たに女御御殿が造営された。翌1620年6月18日、和子はこの御殿から後水尾天皇のもとに入内した。
1623年、秀忠が上洛して二条城に入り、次いで家光が上洛して伏見城で将軍宣下が行われた。この直後に伏見城が取り壊され、新たに淀城が造営されて伏見城の役割を引き継いだ。
さてこの頃、重大なイベントが行われようとしていた。それは後水尾天皇の行幸である。二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため、1624年から1626年にかけて拡張が行われ、本丸御殿や行幸御殿が新たに造営された。
衰退する城
寛永行幸の際、二条城代の職務が設けられ、城代が城を守ることになった。城代職は1699年に廃止され、その職務は二条城在番衆が代わって行うようになった。
在番衆というのは城代職と同じ時期に創設されており、任期は1年で大坂城と交互に3年に1度の番を勤めた。その職務としては、城内の見回りや警護などであった。
家光の時代以後、二条城は殿舎が次々と移築されたり取り壊され、自然災害や火災によって破損していき、二条城は衰退していくのである。
幕府滅亡
幕末になると、黒船来航に端を発し、政治的混乱が起こった。そしてこの混乱は幕府を弱体化させると同時に、朝廷の力が強大化してくることとなり、将軍にとっても見過ごせない事態となった。
1863年3月4日、14代将軍家茂は、3代将軍家光以来となる二条城入城を果たした。この時、二条城はかつての栄華を思わせるものはなく、荒れ果てた城となっていたため、家茂入城に伴い整備が行われた。二条城が再び政治の表舞台に姿を表したのである。
将軍宣下を二条城で受けて15代将軍となった慶喜も二条城に入城したが、将軍として滞在した期間はわずか1ヶ月であった(それまでは二条城に隣接する若州屋敷に住んでいた)。1867年10月13日、慶喜は大政奉還を二条城大広間で宣言し、将軍職を辞職。こうして幕府は滅亡した。
その後、慶喜は二条城を退去し、大坂城へと入った。慶喜退去後の二条城は、若年寄永井尚志と水戸藩士が本圀寺勢200人が守ることとなるが、1868年1月5日、新政府の命を受けて議定徳川慶勝が二条城を接収した。2月3日には明治天皇が二条城に行幸し、幕府倒幕の詔を発したのである。
<現在の状況>
二条城は世界遺産である。二条城を訪れると、日本人を含め世界各国の人達がカメラを片手に城内を見て歩いているのが印象的。
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