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下野の関ヶ原〜上杉軍に対する防備〜

はじめに

 1600年6月16日、徳川家康は上洛の催促に応じない会津の上杉景勝を討つべく、大坂城を出発し進撃を開始。奥州の境目である下野国の那須地域では、臨戦態勢に入った。
 

家康に拝謁

 1600年6月16日に進撃を開始した上杉討伐軍は、7月22日に徳川秀忠が宇都宮城に着き、24日には徳川家康が小山に着いた。
 下野国の那須地域に領地を持つ、伊王野資信、大関資増、大田原資晴は、7月22日に秀忠に拝謁し、そして24日に秀忠の指示によって家康に拝謁した。

 伊王野資信は、5月の段階で上杉軍の情勢を家康に伝えており、家康から守りを固めるよう命じられている。
 小山で家康に拝謁した伊王野資信、大関資増、大田原資晴は、上杉軍に対する防備を命じられて、それぞれの城に帰った。

 ちなみに、伊王野資信、大関資増、大田原資晴が家康に拝謁した7月24日、伏見からの使者が家康のもとへやって来て、石田三成が挙兵したことを報じた。翌25日に小山評定が開かれ、会津攻めを中止し、西上して石田三成を討つことを決定した。これに際し、結城秀康を下野に留め、下野の諸大名には防備を命じている。
 

大田原城の普請

 会津との防衛ラインとして、大田原城は重要な城であった。
 すでに6月の段階で、大田原城の普請のために、徳川譜代の家臣である石川八左衛門重次と内藤金左衛門忠清の両名を奉行として、歩卒約千名が派遣されていた。また加勢として、皆川城の皆川広照と徳川譜代の家臣服部半蔵正就が派遣された。
 7月になると、宇都宮城の蒲生秀行から重臣の蒲生源左衛門を奉行として数百名が加勢し、烏山城の成田氏長も加勢に加わって、那須資景、福原資保、伊王野資友も加勢に加わっている。さらに、家康からは長筒の鉄砲10挺が預けられた。

 

黒羽城の修築

 大田原城と同様に、黒羽城にも修築が行われた。
 黒羽城には、徳川譜代の榊原康政の家臣伊奈主水が派遣されて修築を行い、服部保英は伊賀の同心百人を率いて籠城に加わり、また岡部長盛、水谷勝俊、千本義定も共に加勢に加わっている。さらに大田原城と同じように、家康から鉄砲15挺が与えられている。
 

 

人質を差し出す

 奥州に対する防備に動員された那須衆には、それぞれ人質を差し出すよう命じられた。これは、上杉氏に味方せず、徳川氏に対して忠誠を誓うことが目的であった。
 人質に出された者を記すと以下のようになる。
 大田原晴清・・・晴清の老母、家臣大谷甚太郎の女、家臣大谷源太郎の女。
 大関資増・・・弟の政増、家臣金丸資貞(資満)の妻、家臣浄法寺茂直の女、家臣松本治郎右衛門の妻、家臣津田源海の妻。
 那須資景・・・資景の妻。一族高瀬弥六の妻、一族大田原周防某。
 伊王野資信・・・資信の妻、弟猪右衛門の女、家臣某女2人。
 蘆野政泰・・・政泰の老母、家臣蘆野九右衛門。
 福原資保・・・弟の保通。



関山合戦

 小山評定後、会津攻めを中止して西上しても、上杉軍は南下して徳川軍を追わなかったは周知の通りである。
 9月14日、上杉軍が伊王野口へ進出するという噂があり、伊王野資信は奥州に入って関山に奇襲をかけ、これを占領したが、
翌15日、上杉軍は侵攻してきて合戦となった。
 伊王野方は死者39名を出したが、上杉軍を撃退させている。またこの戦には、大田原や大関らも加勢にかけつけている。