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多賀城


読み・・・たがじょう
所在地・・・宮城県多賀城市市川城前
別称・・・多賀柵
築城年・・・724年
築城者・・・大野東人
陸奥国府
多賀城は724年、大野東人(おおのあづまびと)によって築かれた。多賀城が築かれたことによって、国府が郡山遺跡から移された。
多賀城が724年に築かれたということは「多賀城碑」に書かれており、文献上で多賀城の名が見えるのは、『続日本記』の737年の記事で、「多賀柵」の名で存在していた。
多賀城には、802年に坂上田村麻呂が胆沢城を築くまで鎮守府も置かれており、東北地方の政治や軍事の中心をなしていた。
多賀城の変遷
多賀城の政庁には4つの変遷があった。
○第1期・・・724〜762年。
大野東人によって創建された時期。最初に造営された政庁で、建物は全て掘立式。主要建物は瓦葺であったと考えられている。
○第2期・・・762〜780年。
藤原朝カリ(*)による大改修が行われた時期。建物はすべて礎石式・瓦葺に建て替えられる。
しかし伊治公砦麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱によって焼失。
○第3期・・・780〜869年。
伊治公砦麻呂の乱後、再建の時期。乱後、同じく礎石式・瓦葺で再建された。だが、869年の大地震で倒壊。
○第4期・・・869年〜10世紀半ば。
大地震後の復興の時期。災害後は、主に瓦の葺き替えが行われた。
(*)カリの字は、けものへんに「葛」。
その後の多賀城
その後の多賀城はというと、多賀城ではなく多賀国府と呼ばれている。
前九年、後三年の役では、源頼義、義家の拠点となった。源頼朝の奥州藤原氏攻めでは、頼朝は多賀国府に立ち寄り、戦後の統治方針を行っている。
また、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武の新政では、北畠顕家が陸奥守に任じてられて多賀国府に派遣されて国府を再興している。その後、南北朝の動乱では、多賀国府をめぐって、南朝方と北朝方の攻防が繰り返された。
1354年に大崎氏の祖である斯波氏が奥州管領として下向してくると、次第に斯波氏の勢力が拡大した。斯波氏が奥州探題となった頃、拠点を多賀国府から河内七郡(現大崎市地方)へと変え、多賀城は国府としての役割を終えた。
<現在の状況>
現在でも発掘調査が行われている多賀城。城の範囲は広大であり、古のロマンを感じる素晴らしい場所である。
ちなみに写真にある模型は、第2期の頃の復元模型。
<あわせて読みたいページ>
「伊治城」栗原市に設けられた律令制府の拠点。
「多賀城碑」日本三古碑の1つ。
多賀城の地図→
