トップ>下野の中世史>テーマで見る中世史>多功勢の奮闘

多功勢の奮闘〜上杉軍と北条軍の侵攻〜

はじめに

 多功城は、1248年、宇都宮頼綱の四男、宗朝によって築城された。多功城は、宇都宮城の南を守る城として、その役割を持っていた。
 戦国時代、下野国に侵攻してきた上杉軍と北条軍の軍勢が
多功城に押し寄せた。多功氏は両者との戦で奮闘するのである。

上杉軍の侵攻

 1558年、奥州の葦名盛氏と越後の上杉謙信が同意して下野国へ侵入した。上杉軍は、祗園城壬生城を攻略し、多功城へと攻めこんだ。先陣は、佐野小太郎(佐野家代14代当主豊綱)である。
 このとき、多功側では城主多功長朝、その子房朝をはじめ、簗朝光、その子吉朝、石崎通季、上野祐朝、児山兼朝、野澤保辰、高木道重、そのほかとして、木田淡路守、伊澤遠江守、橋本若狭守、青柳丹波守、坂治部、小菅隼人等が馳せ集まって防戦した。また、祖母ヶ井吉胤、矢板長則も応援としてかけつけた。
 多功勢は佐野小太郎を討ち取ったが、石崎、野澤、児山、高木、祖母ヶ井、矢板等が戦死しているので、激戦だったと思われる。
 上杉軍は上野国まで敗走し、多功勢は敗走する上杉軍を追って上野国まで行ったが、武蔵国岩槻城主太田義資三楽の仲裁によって和睦となった。

 

北条軍の侵攻

 1572年閏1月、相模国北条氏政の下地を受けた秩父新九郎、大田十郎、松田左馬介等の軍勢が下野国へ侵攻、祗園城を攻め落として多功城へと迫った。
 北条軍の侵攻を知った多功房朝は、石崎、野澤、高木、簗等に命じて防戦の準備を進めた。
 北条軍は軍を2つに分け、
多功城を包囲する約2千の軍勢と多功勢との間に戦闘が始まった。約2時間ばかり戦闘が続いたとき、宇都宮から加勢の部隊が続々と近づいたきたため、北条軍は軍を引き上げた。
 一方、もう1つの北条軍は
宇都宮城を攻撃するために行軍していた。この北条軍は、先に述べた宇都宮から多功城を救うための援軍(赤垣高綱、戸祭房相、野中則興、祖母ヶ井越前守などの軍勢)と衝突し、北条軍は追い散らされて引き返した。 


相次ぐ北条軍の侵攻

 1572年12月、北条軍は関宿城を攻め、さらに下野国へ侵攻し多功城に迫った。このとき、宇都宮軍と常陸の佐竹軍と戦い北条軍は敗走した。 1584年4月、北条軍は今度は佐野方面へ攻め込んだ。多功房朝の次男綱継は、宇都宮陣営の先陣として出陣、家臣の石崎通長は一番首を挙げたので、宇都宮家と同盟軍である佐竹義久から感状を拝領した。この戦いは、110日に及ぶ対陣となったが、勝敗決まらず北条軍は撤退した。
 1585年12月、北条軍は
宇都宮城下へと攻め込み、民家や寺院などに火を放った。北条軍の一部の軍勢は多功城にも迫ったが、北条軍は城を攻略することができずに逃げた。
 1589年9月、北条軍は再び
宇都宮城を攻略しようと侵攻してきた。このとき北条軍は宇都宮大明神に火を放つほか、多気城も攻撃するが、宇都宮軍の防戦によって、北条軍は引き上げた。