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薬師寺城
読み・・・やくしじじょう
所在地・・・栃木県下野市薬師寺(旧南河内町)
築城年・・・寛喜年間(1229〜31年)
築城者・・・薬師寺朝村
主な城主・・・薬師寺氏
薬師寺朝村
薬師寺城を築いた薬師寺朝村は、小山氏の一族であるが、朝村の出自に関して不明な点があり、2つに分かれている。
まず朝村は小山朝政の子であるというもので、小山氏の祖である小山政光の孫ということになり、小山政光‐朝政‐朝村という流れになる。
あるいは、朝村は小山長村の子であるともいわれ、こちらは、小山政光‐朝政‐長朝‐長村‐朝村という流れになる。
薬師寺朝村は1235年の段階で、『吾妻鏡』に御家人として登場していることから、小山長村よりも小山朝政の子と考えた方が、時代的には当てはまりそうである。
薬師寺城は、戦国時代の終わりまで存在してはいるが、薬師寺氏は室町時代中頃あたりに薬師寺城を離れている。そして薬師寺氏の後の薬師寺城は、結城氏の支城として機能する。
薬師寺公義
さて、薬師寺氏の中で最も名前が高い人物が、南北朝の動乱期に活躍した薬師寺公義である。
公義は足利尊氏の重臣である高師直の信任厚く、師直の勢力が次第に尊氏の下で拡大されていくと公義も出世していき、師直が武蔵守護に任じられると、公義は武蔵守護代に任じられた。
ところが、師直の勢力拡大を快く思わない尊氏の弟直義は高師直と対立し、尊氏・高師直と直義の対立へと発展していく(観応の擾乱)。1351年2月、尊氏が直義に敗れると、高師直の出家を条件に和睦(すぐ師直は殺されてしまう)。薬師寺公義は師直に徹底抗戦を主張していただけに、師直に落胆して出家し、高野山に登ってしまった。
高師直が死去しても、尊氏と直義の対立は収まらず、1351年11月に尊氏は直義を討つために出陣。尊氏軍は続々と直義軍に勝利し、翌年2月に直義は亡くなる。この一連の戦いで、還俗した薬師寺公義は尊氏方として行動し活躍した。
ちなみに、薬師寺公義が下野薬師寺氏出身かどうかは明確には分からない。
下野薬師寺氏出身の可能性もあるし、摂津薬師寺氏の出身である可能性もある。その摂津薬師寺氏が下野薬師寺氏の後裔である可能性もあるが、よく分かっていない。
<現在の状況>
薬師寺城跡は雑木林となり、ひっそりと残っている。雑木林化するも、城跡として意識して眺めてみると、なかなかの広大さを実感できる。
<あわせて読みたいページ>
「祇園城」薬師寺氏の本家、小山氏の居城。
「薬師寺陣屋」薬師寺城から東にある、秋田藩の出張陣屋。
「薬師寺地域の魅力」ブログ「九鬼の響き」の記述。
<下野市の城一覧>
薬師寺城の地図→