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榎本城



   

   


読み・・・えのもとじょう

所在地・・・栃木県栃木市大平町真弓(旧大平町)

築城年・・・1558年?

築城者・・・小山高朝?

主な城主・・・水谷氏?、小山高綱、近藤綱秀、本多忠純


小山氏と榎本

 榎本城は1558年に小山高朝によって築かれ、次男の高綱を城主にしたという(高綱は高朝ではなく秀綱の子とも言われている)が、既にその頃には城が存在していた可能性があり、小山氏の家臣水谷氏が城主を務めていたと言われる。

 永禄3年霜月(1560年11月)26日、小山高朝が岩上伊勢守に宛てた「小山高朝安堵状」(岩上文書)では、

 「榎本至于本意ニ者、上泉郷之事成敗可被致之候」

 とあり、榎本を得ることができた際、上泉郷を岩上伊勢守に与えることを約束していることから、1560年の段階では榎本は小山氏の所領ではないことが分かる。
 この時期の榎本の地と小山氏との関係はよく分からない。

榎本30騎

 上記の小山高朝の文書が出される数ヶ月前、1560年8月に上杉謙信が関東へ初めて出陣した。謙信のこの動きに対し、10月2日に古河公方足利義氏が小山高朝の子秀綱に出陣要請を行っている。
 なぜ足利義氏は高朝ではなく子の秀綱に援軍を要請したのか。義氏は北条氏康に擁されて古河公方となったが、義氏には異母兄の藤氏がいた。小山高朝は、義氏の異母兄である足利藤氏を支持したことから、義氏から所領を没収されていた。そういうこともあり、義氏は高朝ではなく秀綱に援軍要請したのであったが、この時小山氏は謙信に従った。

 謙信はその後も関東出兵を行い、小山氏は謙信と北条氏との間を揺れ動いた。小山氏は謙信が関東へ出兵すると謙信に従い、謙信が関東から引き上げて北条氏が勢力を盛り返すと北条氏に従った。
 この謙信と北条氏との争いの中で、榎本の文字が出てくる場面がある。
 1566年1月、謙信が小田城の小田氏治攻めを行った際、「上杉輝虎陣立書」(浅間文書)で関東の諸将へ出陣要請を行った。その中で、小山は「百騎」、榎本は「三十騎」と記されている。この時の榎本城主は小山高綱と見られ、この頃には榎本城が小山氏の中で大きな支城へと変化を遂げていたのであろう。

 北条氏は1565年に簗田氏の関宿城を攻撃するも失敗、続いて1568年にも関宿城を攻撃するが越相同盟の締結によって中止、そして1574年に北条氏は関宿城を落城させた。
 北条氏は関宿城を前線拠点とし、1575年2月に北条氏照が祇園城を攻撃して落城、小山氏領は北条氏照の支配下に置かれた。

近藤綱秀

 祇園城は落城したが、小山氏の当主秀綱は佐竹氏を頼って逃げた。そして何度か祇園城の奪還を試みるなど、小山氏は北条氏に抵抗した。
 秀綱は1582年に織田信長の力によって祇園城へ戻ることができたが、その信長が本能寺の変によって急死すると、小山氏は完全に北条氏の支配下に入った。
 氏照は祇園城に秀綱を配置し、榎本城には重臣の近藤綱秀を配置して、小山氏領の支配を進めて行った。
 1590年、豊臣秀吉の小田原城攻めの際、近藤綱秀は氏照の命で八王子城を守って討死。榎本城は結城晴朝に攻められて落城した。



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