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武茂城


   

   

   

   

読み・・・むもじょう

所在地・・・栃木県那須郡那珂川町馬頭(旧馬頭町)

築城年・・・鎌倉時代

築城者・・・武茂泰宗

主な城主・・・武茂氏、太田氏


三河大久保氏の祖

 武茂氏の祖、武茂泰宗は宇都宮景綱(7代目)の子で、この武茂氏は多くの支族を輩出した家であった。その中でも有名な家は、徳川家康に仕えた三河大久保氏である。
 武茂氏2代目の時景の子泰藤の時代は、南北朝の動乱期であった。泰藤は弟の氏泰と共に、新田義貞に従って南朝方として各地を転戦し、義貞の戦死後は三河へ行って再起を図った。一方氏泰は武茂に戻り、武茂氏を継ぐ。三河へ行った泰藤の子孫が後に大久保氏となり、松平氏に仕えるようになる。

宇都宮氏の当主に

 1380年、宇都宮氏と小山氏が戦い(「裳原の戦い」)、宇都宮氏の当主基綱(11代目)は戦死してしまう。基綱の跡を満綱(12代目)が継ぐも、満綱は子がいないまま亡くなった。
 そこで、後継者問題が起こり、満綱の娘と武茂綱家の子持綱が結婚し、分家の武茂氏が本家の宇都宮氏を継いだ。
 数ある宇都宮氏の分家の中で、武茂氏が本家を継いだ背景には、南北朝の動乱時、武茂泰藤と氏泰兄弟が活躍した点が挙げられる。つまり、武茂氏は強かった。

持綱の死

 宇都宮氏の当主となった持綱の時代には、「上杉禅秀の乱」が起こり、関東は再び乱れた。
 1416年、前関東管領の上杉禅秀(氏憲)が、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲基に対して反乱を起こした。この戦いで、宇都宮持綱は鎌倉公方側として戦ったようである。
 上杉禅秀の乱では、鎌倉公方に不満を持つ豪族達が禅秀の味方として多数集まった。このことから、乱鎮圧後、鎌倉公方は禅秀に味方したこれら反鎌倉公方勢力の討伐に乗り出す。そういう鎌倉公方の動きに対し幕府は、禅秀側として戦った豪族達と繋がりを持って「京都扶持衆」とし、鎌倉公方を牽制した。
 鎌倉公方足利持氏は、1422年から京都扶持衆の常陸小栗氏を攻撃し、翌1423年8月2日に小栗城を攻略。宇都宮氏は「上杉禅秀の乱」では鎌倉公方側であったが、京都扶持衆でもあったため、宇都宮持綱は小栗氏と共に戦い、小栗城の落城後は落ち延びた。
 ところが、落ち延びた持綱に悲劇が襲う。同じ宇都宮一族である塩谷教綱によって討ち取られてしまったのである。塩谷教綱のこの行動は、持綱が宇都宮氏の当主となったことに不満を持っていたためという。

等綱の時代

 宇都宮持綱が亡くなった時、子等綱はわずか4歳であり、しかも宇都宮を追われて各地を放浪する身となった。その際、等綱の後見をし、留守の宇都宮を預かったのは、祖父の武茂満家であった。
 1438年に「永享の乱」が起こり、この頃に等綱は宇都宮に戻っている。永享の乱では、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実が対立した。この戦いで幕府は関東管領の味方をし(等綱も幕府側か?)、翌年に足利持氏は自害した。関東管領上杉氏の勝利によって、関東管領上杉氏が関東の実権を事実上握るに至った。
 1440年には「結城合戦」が起こる。これは、持氏の遺児を擁して結城氏が抵抗した。幕府と関東管領の軍は結城城を包囲し、結城氏は敗れて滅亡。結城合戦では、等綱は幕府側として参戦している。
 その後、足利持氏の遺児である成氏が新しい鎌倉公方となるも、成氏は関東管領と対立し、「享徳の乱」が起こった。享徳の乱は、成氏と幕府・関東管領の争いであり、等綱は幕府側につく。成氏の勢力は拡大し、宇都宮氏は成氏から攻撃を受けた。一方、等綱の子明綱が成氏派となって降伏したことから、宇都宮氏は成氏派になり、等綱は出家して宇都宮を追われた。

宇都宮正綱と成綱

 15代目の当主となった宇都宮明綱は、わずか21歳で亡くなってしまう。若くして亡くなった明綱には子がなく、再び後継者問題が起こった。
 後継者になったのは正綱。正綱の出自は、武茂氏から本家を継いだ宇都宮持綱の娘が芳賀成高に嫁いでいて、その芳賀成高の子である。正綱は、武茂満家で断絶となっていた武茂氏を再興していたのだが、この正綱が明綱の跡を継いで16代目当主となった。よって、武茂氏は再び断絶となる。

 ところで、武茂氏の宇都宮持綱が宇都宮氏当主となり、さらに芳賀氏・武茂氏と関係ある正綱が宇都宮氏の当主となったことで、宇都宮氏の内部では、武茂氏と芳賀氏の勢力が大きくなりつつあった。
 正綱の跡を継いだのは成綱。「中興の祖」と言われ、衰退していく宇都宮氏を盛り返した人物であるが、成綱が家督を継いだ時、武茂氏に不穏な動きがあった。成綱は芳賀氏の力によって武茂氏を排除するも、今度は代わって芳賀氏の勢力が絶大となった。成綱は芳賀氏と対立し、「宇都宮錯乱」と呼ばれる内乱を経て芳賀氏を一掃した。
 成綱は3人の弟、兼綱を武茂氏に入れて再興させ、興綱に芳賀氏を継がせ、孝綱を断絶していた塩谷氏に入れて再興させる。これによって、宇都宮氏の内部を強固にした。こうして、正綱の後に断絶していた武茂氏も再び再興された。

佐竹氏の支配下に

 さて、武茂成綱の弟兼綱によって再興された武茂氏であったが、武茂地方は那須氏、佐竹氏と接していた。この両勢力の抗争によって、次第に武茂地域は佐竹氏の領地となったようである。
 1590年に秀吉の小田原攻めが起こると、佐竹氏は秀吉に属した。所領を安堵された佐竹氏は、家臣の配置替えを行い、武茂氏は常陸国大賀に、武茂氏に代わって太田氏が武茂城に入った。
 関ヶ原の戦い後、佐竹氏は秋田へ転封となり、武茂氏も秋田へ移った。


那須資晴の武茂城攻め

 1582年8月、那須資晴が武茂氏と戦い武茂城攻めを行った。以下は、『那須記』巻11「資晴武茂城責付東光寺縁起ノ事」の概略。


 1582年8月2日、那須資晴は500余騎を率いて大桶に出陣した。武茂守綱・豊綱父子は、久那瀬に物見を出すと、資晴の旗を見つけ守綱に報告する。これを聞いた守綱は、200余騎の軍勢を従えて出陣し、その間に資晴の先陣は愛宕山に陣を取った。守綱は愛宕山に鉄砲を撃って攻め込むと、那須勢も鉄砲を撃った。両軍はしばらく矢を射合って戦ったが勝負がつかない。
 資晴の後陣にいた大関・蘆野の200余騎は天神の森に陣取って町屋に火をかけた。町人たちは驚き、財宝を背負って逃げた。大関勢は追いかけて地蔵院に乱入し、代々の重宝、曼荼羅を奪い、仏具は分散した。守綱は愛宕山を豊綱に任せ、守綱自身が150余騎で駆け付けた。そして馬頭観音の前で大関勢と戦うが、守綱の先陣は敗れて逃げてゆく。北條守直が大関勢に向かって奮戦するも、情勢は変わらない。守綱はこのままでは味方が討たれると思い、山城の武茂城で防戦しようと退いた。
 那須勢は武茂城の西から攻め寄せ、互いに鉄砲を撃ちあうが勝負はつかない。那須勢の先陣蘆野資泰80余騎が城の際まで攻め寄せ、鬨の声を上げると、城からは鉄砲を撃ち、石が落とされたことで、引き下がった。資晴は、鳥子・松野200余人が守綱に加勢したこと知り、退こうとしたところに、天神の森の方から鬨の声が上がった。資晴は守綱の援軍と思い、城から退いて援軍と戦った。守綱は200余人で城から打って出ると、那須勢を挟み撃ちにする。愛宕山の両軍は、その様子を聞くとすぐに引き、豊綱は守綱と1つの陣になって戦ったが、日が暮れて敵味方の判別つかず、引き下がってかがり火をたいた。
 武茂氏家臣の星豊前は、資晴の陣所に忍び込んで資晴を討とうとしたが、「誰だ?」と敵に怪しまれた。星豊前は「夜回りの者」と答えると、大田原氏は「夜回りの者と言うが、誰の家臣だ?」と問う。星豊前は「福原の家臣」と言うと、そこにいた福原氏が、「我が家臣と言うが、誰だ?」と言ったことから、星豊前は姿を現すことができず逃げた。
 福原氏は討ち取れと命じ、恩田民部掾と齋藤藤七郎が長刀を持って追いかけた。星豊前は引き返して戦い、齋藤藤七郎は頭上高く刀を振り上げておろすと、切先が木戸の柱にひっかかった。それを引こうとする齋藤藤七郎に星豊前が走り寄って首を取り、立ち上がろうとしたところに、恩田民部が星豊前の兜に打ちかかった。恩田民部はどうしたのか平打ちをし、星豊前は頭を強打して一時的に視界を失うも兜に異常はない。恩田民部の刀は弓のように曲がり、直している隙に星豊前は状態を取り戻して戦う。この星豊前の奮戦は、暗い中で敵も味方も分からない那須勢に同士討ちが発生した。大関氏が「松明を出して戦え、同士討ちはするな」と命じるも、混乱した兵達は聞く耳を持たない。
 那須勢の混乱を見た武茂守綱は、300余人で一気に押し寄せて鬨の声を上げると、那須勢はますます混乱した。那須勢は退却して烏山へと退き、蘆野氏がしんがりを務めた。
 那須勢の戦死者54人、負傷者は100余人。武茂勢の戦死者は47人、負傷者は134人。
 星豊前は齋藤藤七郎の首を持参したことで、500疋の知行を賜った。


<現在の状況>

 城全体に残る深い堀と高い土塁は、驚きの連続である。素晴らしき城である。


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 「宇都宮城」宇都宮氏代々の居城。

 「畑の台館」那珂川町松野にある松野氏の居城。

武茂城の地図→