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佐沼城


   

   

読み・・・さぬまじょう

所在地・・・宮城県登米市迫町佐沼(旧迫町)

別称・・・鹿ヶ城

築城年・・・1185〜89年

築城者・・・照井高直

主な城主・・・照井氏、石川氏、成合平左衛門、津田氏、亘理氏


大崎氏と葛西氏の接点の地

 佐沼城については葛西・大崎一揆で有名であるが、それ以前の歴史についてはあまり明確ではない。
 佐沼城は、文治年間(1185〜89年)に藤原秀衡の家臣、照井高直によって築城したという。
 源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、この地は葛西氏の所領となった。だが、この地は大崎氏と葛西氏の境に当たるため、室町時代になるとこの地は大崎氏の所領となり、大崎氏家臣の石川氏が城主になっている。

葛西・大崎一揆起こる

 葛西氏は1590年の小田原攻めに参加せず、やがて佐沼城に籠もり奥州仕置軍と戦って敗れた。
 葛西氏が滅亡すると、葛西氏と大崎氏の領地は豊臣秀吉の家臣木村吉清の所領となり、吉清は寺池城、子の清久は古川城に入った。
 しかし、木村氏がこの地にやってくるとまもなく葛西・大崎一揆が起きる。ここで一揆の様子を書くことにする。

 葛西・大崎氏に代わって領主となった木村吉清は、元は明智光秀の家臣であった。それが明智家滅亡後に秀吉に5000石で取り立てられた。その吉清が、奥州仕置きによって一躍葛西・大崎氏の所領30万石を与えられるという大出世を遂げたのである。この大出世の裏には、葛西・大崎氏の旧領は危うい土地であるから、何が起こっても良いように吉清を送りこんだという話もある。
 木村氏は元は5000石の者であるから、当然家臣の数は少なかった。それが一躍30万石の大大名となると、当然それなりの数の家臣が必要になってくる。そこで吉清は急遽家臣集めをし、その結果、その質に合わない者達が大量に取り立てられることとなった。それらの者が乱暴、狼藉を働き、また、木村氏自体の統治の仕方も乱暴であったため、葛西・大崎氏の旧臣達の不満は頂点に達していた。
 一揆はまず1590年10月16日に旧葛西領の胆沢郡(現岩手県)で起こった。続いて江刺郡(現岩手県)へとその火は拡大し、その後瞬く間に各地で一揆が発生していく。一揆の構成員は、多くは葛西・大崎氏の旧臣達であり武士であるから、その強さは強大であった。

政宗と氏郷の確執

 古川城にいた木村清久は一揆の報を聞くと、その鎮定方法を父吉清と相談するため寺池城を訪れた。その間、一揆が岩出山で起こり、古川城が攻め落とされたため、清久は城へ帰ることができなくなった。一揆勢は寺池城目指して進軍を開始したことから、吉清と清久は家臣成合平左衛門のいる佐沼城に籠もって籠城することに決する。
 奥州仕置軍として奥州へ来ていた浅野長政が、その帰路白河あたりで一揆の報を聞くと、伊達政宗と蒲生氏郷に一揆鎮定の出動を要請した。伊達軍は直ちに出動し、それに少し遅れて蒲生軍が出動、その数は伊達軍1万5000騎、蒲生軍6000騎であった。
 政宗は11月17日、翌日から旧大崎領に入るので氏郷を茶の湯に招いて作戦等を話し合った。政宗は本街道を通って進軍し、氏郷は道筋の民家に火を放ちながら進軍し、明日は両軍共に高清水城に攻撃を仕掛けようということに決まった。その日のうちに両軍は軍を進め、氏郷は中新田に宿泊、政宗は7、8町離れた大屋敷に宿泊した。ところがその夜中、突如政宗が「病気のために明日の合戦を延期してもらえないか」と申し出てきた。それに対し氏郷は、「延期はできないから、自分は予定通り攻撃を開始する」と返答。
 翌18日、氏郷は予定通りに進撃開始すると、突然名生城から蒲生軍目掛けて鉄砲が放たれてきた。先日の茶の湯の席で政宗は、一揆勢が高清水城にいるとだけ氏郷に言い、名生城に一揆勢がいることを言わなかった。蒲生軍は名生城攻めにかかり、猛攻を加えて城を落とした。強行して攻めたため、蒲生軍は多くの犠牲を出すものの、討ち取った首は680余と大勝であった。
 氏郷が名生城に入ると、政宗の家臣須田伯耆の他数名がやって来て、政宗が一揆勢に与えた書状を持参した。そこには、茶の湯の席で政宗が氏郷を討とうとしていたこと、仮病を使って高清水城への進軍をしなかったこと、そして一揆勢に政宗が加担していたことなどが書かれてあった。これ以後、氏郷は政宗を疑って名生城に籠もり、秀吉に政宗の陰謀を訴えた。
 氏郷が名生城に入ったことで、佐沼城を囲っていた一揆勢は次々と退散し、木村父子は無事に救出されて名生城へと入った。木村父子救出は、11月23日に蒲生軍に救出されたともいい、11月24日に伊達軍に救出されたともいい、はたまた別の者(一揆方に味方していた黒沢備前守)が11月12日の夜に清久を23日に吉清を救出したともいい、いずれが正しいのかは分からない。
 救出された木村吉清は、間もなく旧葛西・大崎領を追われ、氏郷の靡下に属した。

佐沼城の攻防戦

 その後、伊達軍と蒲生軍は引き上げ、氏郷は1591年1月上旬に須田伯耆等を連れて上洛し、政宗の葛西・大崎一揆の陰謀について報告した。一方の政宗も、その疑惑について秀吉から上洛を命じられた。この時政宗は、金箔のはりつけ台を押し立てて京へ向かったという話は有名である。
 2月上旬、秀吉は聚楽第にて、政宗と氏郷を問責した。秀吉は、一揆扇動の書状を政宗に見せると、政宗はその書状には鶺鴒の花押の目に穴が開いておらず偽物だと言い、自分の書いた書状には必ず鶺鴒の花押の目に穴を開けると言った。秀吉は政宗から届いた数々の書状を一つ一つ調べると、いずれも鶺鴒の花押の目に穴が開いている。実は政宗は2通りの文書を発行しており、公文書には穴を開け、秘密文書には穴を開けていなかったのである。
 これで政宗の疑いは晴れたという話も有名であるが、政宗陰謀説の真偽はどうなのであろうか。少なからずその疑いがあったことは間違いないし、限りなく黒に近い感じも受ける。

 さて、葛西・大崎一揆はこれで終わりではなかった。木村吉清の統治は終わり、伊達軍と蒲生軍が引き上げると、再び一揆が発生した。政宗は単独で一揆の鎮定を命じられた。伊達軍の総勢は2万4000だったという。
 今回の一揆勢は主に宮崎城と佐沼城に籠もり、伊達軍は6月24日に宮崎城を攻撃して落城させると、続いて6月27日に佐沼城の攻撃にかかった。
 佐沼城では木村父子が城を出た後、葛西氏一門の千葉信胤とその弟信重が大将として城を修築して籠もっていた。葛西・大崎氏の旧臣や百姓達が籠もり、総勢は1万人を超えていた。
 伊達軍の攻撃によって7月3日に落城、籠もっていた者達は女、子供にいたるまで徹底的になで斬りにされた。城中の死体は死体が重なり合い、土が見えなかったというから、その凄まじさが分かるであろう。
 佐沼城を落とした伊達軍は寺池城へ陣を移すと、所々に籠もっていた一揆勢は政宗の武威を恐れて寺池城に集まり皆降伏した。政宗は降伏した一揆勢の頭領達に、「後に桃生郡深谷須江山に集まるよう、それまでは謹慎していろ」と言った。ところが、関白豊臣秀次の命令によって全員討ち果たされてしまったという悲劇をもって葛西・大崎一揆は幕を閉じた。

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