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赤見城
読み・・・あかみじょう
所在地・・・栃木県佐野市赤見町(旧佐野市)
別称・・・町屋城
築城年・・・1175年
築城者・・・足利俊綱
主な城主・・・足利氏、戸賀崎氏、赤見氏
足利俊綱
赤見城は、藤姓足利氏4代目の足利俊綱によって1175年に築かれたという。
1183年、源頼朝の叔父である志田義広が頼朝に反旗を翻すと、足利俊綱は志田義広側についたが、志田義広は2月に「野木宮合戦」で源頼朝方の小山氏に敗れた。
やがて足利俊綱討伐軍が発せられると、家臣の桐生六郎の裏切りによって殺されてしまった。その桐生六郎は俊綱殺害の功績で御家人の地位獲得を願い出るも、主人殺しは称賛されるべきではないとして殺害された。
足利俊綱の死後、赤見城には戸賀崎義宗が入り城を再興したという。その時期は1190年とも1201年ともいわれている。
源姓足利氏の祖である足利義康の曾孫に、戸賀崎義宗の名が見える。おそらくこの人物と同一人物と思われるが、1190年や1201年というのは、義宗の父あるいは祖父の時代になるため、年代は少し異なっている。
赤見氏
時代は下って室町時代。赤見氏の名前が見られるようになり、赤見氏は佐野氏の一族である。
1454年から始まる「享徳の乱」は、足利成氏(後の古河公方)が関東管領上杉憲忠を殺害したことで始まった。上杉方は五十子陣を構築し、それを挟んで成氏方と上杉方の睨み合いが続くこととなる。
1471年4月、山内上杉氏の家宰である長尾景信を総大将とし古河を攻撃するために出陣した。上杉軍は八椚城、赤見城、館林城を攻め落とし、古河まで攻め込んで足利成氏を古河から追い落とした。
上杉軍が攻め落とした城の中に赤見城が含まれおり、また八椚城の城主は赤見氏、加胡氏、大高氏と複数の名前が見える。
戦国時代になると、1559年に赤見城は佐野氏によって攻められた。
赤見氏が佐野泰綱に背いたことから、佐野軍が赤見城を夜襲し、赤見氏は常陸に逃れた。後に赤見氏は佐野に戻って改めて佐野氏の家臣となり、大門の城(横小路城?)に住んだという。
<現在の状況>
赤見城保育園を囲むように、立派な土塁と堀が残っている。実に美しき遺構である。
<あわせて読みたいページ>
「足利城」足利俊綱の居城。
「大門館」赤見城と同じく、赤見地区にあった館。
「横小路城」後に赤見氏が居住か?
<佐野市の城一覧>
赤見城の地図→