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関宿城
重要な城
関宿城は、佐倉城、忍城とともに、江戸城にとって重要な城の1つであり、有力な譜代大名が代々入った。
小田原攻め後に徳川家康が関東に入ると、家康は異父弟の松平康元を関宿に入れ、翌年康元は2万石から4万石に加増された。康元の子忠良が1616年に美濃大垣へ移封すると、越後三条から松平重勝が2万6000石で入った。
1619年に重勝が遠江横須賀に移り、小笠原政信が下総古河から2万2000石で入る。以後小笠原氏は、政信、貞信と続いて1640年に美濃高須に移った。
小笠原貞信の後は北条氏重が遠江久能から2万石で入り、氏重は1644年に駿河田中に移封。
北条氏重の後、牧野信成が武蔵石戸から1万7000石で入り、1656年に信成の子親成は摂津河内へ移った。
牧野家の後には板倉家が5万石へ入り、重宗、重郷、重常と続いた。重常は1669年伊勢亀山へ移封となり、久世広之が5万石で入った。
久世広之の子重之は1683年に備中庭瀬へ移封、代わって牧野成貞が5万3000石で入った。
牧野家は成貞、成春と続いて、1705年三河吉田へ移ると三河吉田から再び久世重之が入った。
以後、久世家が暉之、広明、広誉、広運、広周、広文、広業と続いて明治を迎えた。
<現在の状況>
関宿城は御三階櫓が復元され、関宿城博物館となっている。
写真下左の石碑は本丸跡(写真右下)にあり、本丸跡は関宿城博物館から南へ約700メートルほど行ったところにある。
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