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仙台城
仙台城築城
関ヶ原の戦い後、政宗は徳川家康に城普請の許可を願い出た。岩出山城では伊達家の領地からすると北西に偏りすぎていて、領内統治の上で不便であったためである。
城の選定地としては、日和山、榴ヶ丘、青葉山、あるいは、つつじが岡、野手口を候補に挙げ、家康から青葉山を指名されたという。
1600年12月24日、伊達政宗は千代城へ出かけ、城普請のための縄張りを行った。そして千代の文字を「仙台」と改めた。
翌1601年1月11日、城の普請始めを行い、惣奉行には後藤孫兵衛、川島豊前、金森内膳、原次右衛門、真柳十介が任ぜられた。
2月1日から5月5日までの間には、早くも家臣や町人を岩出山から仙台に移し、政宗自身も4月14日に仙台城へ移っている。
1602年には、本丸ができあがり、1603年8月には上洛した政宗が仙台城に入城している。
しかし1627年、政宗は若林城の築城を開始し、これが完成すると日常生活の大部分を若林城で過ごすようになった。1636年に政宗が亡くなった後、若林城は廃城となっている。
伊達騒動
政宗の跡を継ぎ、仙台2代藩主となったのは忠宗であった。忠宗は、二の丸の造営を行っている。
忠宗の跡を継いだ3代藩主綱宗は、21歳で逼塞を命じられ、4代藩主にわずか2歳の綱村(亀千代)がついた。そして、伊達騒動(寛文事件)が起こるのである。
亀千代の後見役として、伊達宗勝(兵部)と田村宗良が命じられたが、次第に宗勝の勢力が増大していった。そして、登米伊達氏と涌谷伊達氏との間に知行地境界争いが起こり、裁定の結果、涌谷伊達氏の不利に終わった。涌谷伊達氏の宗重(安芸)はこれを不服とし、幕府に提訴した。この時、宗重の訴訟問題は、所領問題よりも、宗勝一派による藩政専断に対する弾劾に変わっていた。
1671年3月27日、大老酒井忠清の屋敷で、宗重と原田宗輔(甲斐)が取調べを受けたが、この時、原田宗輔が宗重に斬りかかって殺害し、宗輔も斬られて死んだ。
この原田宗輔の刀傷事件の後、伊達宗勝は土佐へ配流、宗勝と同じく綱村の後見役であった田村宗良は閉門、そして原田宗輔一族は処刑された。伊達騒動は、後見役や家老の不始末で起こったもので、綱村には関係しないものとして、伊達家62万石は守られた。
奥羽越列藩同盟
綱村の後、吉村、宗村、重村、斉村、周宗、斉宗、斉義、斉邦、慶邦、宗基、宗敦と続いた。
仙台藩は宗村以後、借金が増大し、また斉村以後は藩主が若年で没するなど、藩政は不安定であった。
1868年閏4月11日、白石城に奥羽諸藩の代表者達が続々とやって来た。そして、仙台、米沢両藩が主催して会津藩救済ための会議が行われたのである。新政府軍に提出する会津藩のための嘆願書に署名を求め、これを提出するも却下された。
閏4月22日、奥羽各藩は再び白石に集まり、5月3日には場所を仙台に移して、25藩からなる奥羽列藩同盟が結成された。その後、北越の長岡藩なども加盟し、計31藩からなる奥羽越列藩同盟が結成される。盟主には、孝明天皇の義弟である輪王寺宮を担いだ。
新政府軍は、その間、5月1日には白河城を陥落させており、奥羽越列藩同盟軍は白河城の奪還を試みるも失敗した。仙台藩兵は、ドンと大砲が鳴ると五里も逃げる兵として、「ドン五里兵」と嘲られたが、各地で転戦した。仙台藩士の死者は約1260人にものぼっている。
しかし、奥羽越列藩同盟軍は、新政府軍の北上の動きを止めることができず、仙台藩は9月15日に降伏した。それに前後して、同盟各藩も続々と降伏している。
明治政府によって、仙台藩は62万石から28万石へと大幅に削減され、所領を失った仙台藩士達は、多くの者が北海道へ移住したりした。
<現在の状況>
復元された隅櫓から、ずっと山を登っていくと本丸跡にたどり着く。道中には高い石垣があり、その迫力に圧倒される。資料館ではCGによる仙台城の様子が見られて良い。また、本丸跡からは仙台の街を一望できる。素晴らしい。
<あわせて読みたいページ>
「若林城」伊達政宗が日常生活を送った城。
「白石城」仙台藩のもう1つの城、片倉氏の居城。
「米沢城」伊達氏の元々の居城。
仙台城の地図→