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壬生城



   

   

   

   

読み・・・みぶじょう

所在地・・・栃木県下都賀郡壬生町本丸1丁目

別称・・・馬蹄城

築城年・・・1462年

築城者・・・壬生胤業

主な城主・・・壬生氏


壬生氏の出自

 壬生氏について2つの説がある。1つは、壬生胤業は京都の公家小槻氏の出であるというもの、もう1つは壬生氏は宇都宮氏の分家であるというものである。

 京都小槻氏の出身説は、壬生氏初代の胤業が壬生に移り住んで「壬生」と名乗ったと言われている。しかしながら、そんなことが果たして可能なのかという疑問がある。
 もう1つの宇都宮氏分家説は、宇都宮一族の横田氏の中に「壬生三郎」の名前が見える。壬生三郎は早世してしまったようだが、これが遠祖との可能性が指摘されている。
 いずれにしても、壬生氏の出自は謎に包まれているのである。

壬生氏の勢力拡大

 壬生胤業は1462年、壬生新町に館を構えた。ただこれは、小槻氏出身説によるものであり、壬生城の築城に関しても謎がある。
 壬生氏は1509年、胤業の子綱重の時には既に鹿沼へと進出していた。どのような経緯で鹿沼へ進出したのかも謎であるが、壬生氏は壬生と鹿沼を拠点にして広範囲に勢力を持つに至った。

 壬生氏の主家は宇都宮氏。宇都宮家では、1512〜14年に「宇都宮錯乱」、1523年には「大永の内訌」と続けて内紛が起こった。
 これらの内紛を通して、綱重の子綱房は宇都宮家の中で存在感を強めていき、1549年に宇都宮尚綱が「早乙女坂の戦い」で戦死すると、宇都宮城を占拠してしまうほど勢力を高めた。

壬生家の内紛

 壬生綱房と綱雄の親子が宇都宮城を占拠すると、芳賀高定は宇都宮尚綱の遺児伊勢寿丸(広綱)を自領の真岡へと逃れさせた。
 芳賀高定は宇都宮城奪還に向けて動き、1557年には壬生綱雄を宇都宮城から追放させ、伊勢寿丸(広綱)を宇都宮城に入城させた。
 宇都宮城を追われた綱雄は壬生城に戻り、綱房の弟である徳雪斎周長と対立していったと思われる。宇都宮氏寄りの立場である周長は、鹿沼城を拠点にして勢力を固め、壬生家の実権を握った。
 綱雄は1576年に殺害された。綱雄の子義雄は壬生城を拠点にし、北条氏と結ぶなどして周長打倒の準備を進めると、1579年に皆川広照の力を得て周長を倒し鹿沼城へと入った。

壬生義雄の時代

 徳雪斎周長を打倒して鹿沼城に入った壬生義雄は、周長勢力の排除して支配権を確立した。
 この頃の情勢は、北条氏と反北条氏(佐竹・宇都宮氏を中心とする)の争いであり、北条氏と結んでいた義雄も時には反北条氏になることもあったが、最終的には北条氏方である。
 1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの際、北条氏の滅亡と共に壬生氏も滅亡する。


<現在の状況>

 城址公園となる壬生城の入り口には、鹿沼市内に移築された壬生城の門を模して復元された二の丸門が建っている。
 また、公園から少し南東に行くと「壬生城東郭 櫓台跡」の史跡(地図)もある。


<あわせて読みたいページ>

 「鹿沼城」壬生城のもう一つの居城。

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壬生町の城一覧

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