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山川綾戸城


山川水野氏

 1590年、山川晴重は豊臣秀吉から所領を安堵された。晴重が1593年に死去すると、子の菊松丸が跡を継いだ。菊松丸は1601年に結城秀康に従って越前へ行き、山川領は天領となった。
 1604年、松平定綱が山川領内で5000石を与えられ、さらに1609年に山川領内で1万石を加増されたことで山川藩が立藩した。定綱は1616年に常陸下妻へ移り、代わって水野忠元が3万石で入封。
 水野忠元が山川水野氏の祖であり、1617年には大坂の陣での功によって5000石を加増されて3万5000石となった。忠元は城を修築したり城下町を整備したりした。忠元の跡を継いだ忠善も内政に努めたが、1635年に駿河田中へ栄転。
 水野忠善が駿河田中へ移った後、山川の地は太田資宗が支配したが、資宗は1638年に三河西尾へ転封となる。以後、山川は壬生藩が支配することになった。
 ちなみに、天保の改革で知られる水野忠邦は、山川水野氏の系統である。


<現在の状況>

 山川不動尊より少し南西に案内板が建っており、土塁が確認できる。案内板には「土塁の一部」とあるが、城域は実に広大である。なお、地図は案内板が建っている場所。


<あわせて読みたいページ>


 「山川氏館」山川綾戸城に移る前の山川氏の居城。

 「結城城」山川氏の本家、結城氏の居城。

 「水野忠邦の墓(水野家の墓)」かつて山川水野家の菩提寺があり、山川水野家代々の墓がある。

 「私にとっての難攻不落」ブログ「九鬼の響き」の記述。

 「ダブル水野」ブログ「九鬼の響き」の記述。

山川綾戸城の地図→