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大田原城



大田原藩

 小田原攻めによって、大田原家は7千石余を安堵された。その後、徳川家によって加増を受け、1万2千4百石余となった。
 大田原晴清の跡を政清が継ぎ、政清の跡を高清が継いで、高清は弟為清に1千石を分与したため、石高は1万1千4百石となった。約1万石の小さな大名ではあったが、外様藩として大田原家で変わることなく明治維新まで続いた。
 高清の跡は、典清、純清、清信、扶清、友清、庸清、光清、愛清、広清、富清、一清と続いて、一清の時に戊辰戦争を迎えている。

大田原城の攻防戦

 大田原藩はいち早く新政府側につき、旧幕府軍は大田原城を奥州への押さえとして重要な拠点と見て、1868年5月2日、旧幕府軍1千が大田原城を攻撃した。
 旧幕府軍は1千、一方大田原城内にいた藩兵の数は百にも満たない数であった。旧幕府軍は大田原城を攻め立てたが、三の丸の作事小屋で爆発が起こった。作事小屋には銃弾や砲弾が入っており、旧幕府軍は驚いて退却したという。ところが、大田原藩兵も城の外へ退却し、両軍退却で大田原城の攻防戦は終わった。
 落城間近で旧幕府軍が退却した件につき、その時は雨が降っていて鉄砲が使えなくなってしまったため、旧幕府軍は退却したとも言われている。だが、前日に白河城が新政府軍の手に落ちていたので、大田原城の戦略的効果がなくなってしまったために退却したのではないだろうか。


<現在の状況>

 大田原城は現在、龍城公園となり、土塁と堀は堅固な姿を見せている。


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大田原城の地図→