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桜野城



読み・・・さくらのじょう

所在地・・・栃木県さくら市櫻野(旧氏家町)

築城年・・・不明

主な城主・・・糟谷氏


最前線の城

 1549年9月27日、宇都宮尚綱と那須高資が戦った「早乙女坂(五月女坂)の戦い」の際、桜野城、勝山城馬場城の城主が宇都宮軍の先陣となって戦った。この戦いは宇都宮尚綱が戦死し、宇都宮軍の敗退に終わる。
 桜野城は宇都宮氏にとって那須氏に対する最前線拠点であり、那須氏からも真っ先に狙われることになった。
 1573年3月(2月?)、那須資胤は桜野城を攻撃した。以下は『那須記』巻9にある桜野城攻撃の概略。

 那須修理大夫資胤は700余騎を率いて氏家へ出陣した。桜野城主糟屋又左衛門を攻め、勝山城主氏家左衛門・馬場城主船生石茂四郎を後から攻めた。
 資胤は桜野城を攻め落とし、民家を放火すると、勝山城に取り掛かって戦った。勝山城には糟屋又左衛門・船生石茂四郎が籠城して戦い、宇都宮にこのことを報告すると、1000余騎の援軍派遣が決定された。
 那須軍は宇都宮氏の援軍が来るまでに攻め落とそうとするが、氏家氏は武勇の侍であるから、たやすく攻め落とすことができない。那須軍は民家に火をつけて焼き尽くした。大田原氏と福原氏は資胤に、
 「これ以上時間がかかっては、必ず宇都宮軍が大軍でやって来ます。まず今回は、桜野城を攻め落とし、氏家の民家を焼き払ったので、本望を遂げたとは思われませんが、兵を引くことがふさわしいと思われます」
 と申し上げた。資胤はこれを受け入れ、那須へと帰った。
 その考えの通り、宇都宮軍は大軍でやって来た。氏家氏と糟屋氏は戦況の詳細を申し上げると、宇都宮軍は力及ばず宇都宮に帰った。


 ちなみに「宇都宮下野守「国綱家臣帳」」には、「高八百 桜野 粕谷又ヱ門」とある。


<現在の状況>

 桜野城は水田となる。


<あわせて読みたいページ>


 「勝山城」桜野城と共に宇都宮氏の前線拠点。

 「御前城」馬場城とも言い、桜野城と共に宇都宮氏の前線拠点。

 「桜野陣屋」桜野にあった佐倉藩の飛び地を支配した陣屋。


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