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八木岡城



   

   

   


読み・・・やぎおかじょう

所在地・・・栃木県真岡市八木岡(旧真岡市)

築城年・・・1293〜98年

築城者・・・八木岡高房

主な城主・・・八木岡氏、水谷氏


芳賀氏の一族

 八木岡氏の祖である八木岡高房は、飛山城を築いた芳賀高俊の子である。
 八木岡高房には跡継ぎがいなかったため、高房は小栗城小栗重宗の子高政を養子に迎えて2代目とした。

一度目の落城

 鎌倉幕府の崩壊後、南北朝の動乱が起こった。
 南朝方は、1339年2月に春日顕国を常陸方面に派遣。
 春日顕国は関城を本拠にし、下野へと攻め込んだ。この時、八木岡城は攻撃を受けて落城する。

二度目の落城

 戦国時代になると、結城氏の家臣で下館城の水谷正村(蟠竜斎)は、下野への進出を企てた。
 水谷正村は1544年に中村城を攻略し、さらに八木岡城も攻め落とす。
 この水谷正村の動きに対し、宇都宮尚綱は中村と八木岡の奪還を図った。そして1546年4月、尚綱は武田信隆に3千の軍勢を与えて久下田城を攻めさせたが敗北。以後、中村と八木岡の地は、完全に水谷氏の支配下になる。

八木岡五郎


 『太平記』巻第十六「多々良浜合戦事付高駿河守引例事」に、八木岡五郎という武将の名が見える。

 1336年1月、足利尊氏は奥州から上洛してきた北畠顕家軍の攻撃を受け、尊氏は九州へと逃れた。少弐氏に迎え入れられた尊氏であったが、その少弐氏は菊池氏と激突して敗れ、菊池氏は多々良浜へと押し寄せる。
 菊池軍の4、5万騎にも見える大軍を前にした尊氏は、自軍は300騎にも満たないことから、自害の覚悟を決める。尊氏の弟直義は、味方の者はずっと付き従ってきた者だから「一人当千ノ勇士」であるとし、尊氏の自害をとどめた。そして、直義自身が敵と一合戦しようと言い進発した。
 直義に従った兵は250騎、この中に八木岡五郎の名があり、敵軍3万余騎の敵に挑もうと心に決めたのである。

 足利軍と菊池軍がにらみ合いを続ける中、菊池軍の中から黄河原毛の馬に乗り、緋縅の鎧を着た武士が抜け駆けをしてやって来た。
 この時、足利軍の曾我左衛門・白石彦太郎・八木岡五郎の3人は、馬も甲冑もなく前を進んでいた。この抜け駆けの武士を見た白石彦太郎が、馬から落としてやろうと手元近くに寄せると、敵は太刀を捨てて腰刀を抜こうと体を反るが、まっさかさまになって馬から落ちた。白石彦太郎は敵の首を掻き、敵の馬に曾我左衛門が飛び乗り、敵の鎧を八木岡五郎が剥ぎ取って着た。白石彦太郎の手柄によって、曽我左衛門と八木岡五郎は戦利品を得た。
 すぐに3人はすぐ敵中へ攻め入ると、仁木四郎次郎義長と細川陸奥守顕氏は「あの3人を討たすな、続け」と、大軍の中に攻め入って乱戦になった。

 この「多田良浜の戦い」で菊池軍に勝った足利尊氏は、勢力を盛り返した。そして尊氏は再び上洛へと動き出すのである。


<現在の状況>

 八木岡城の整備は見事で、素晴らしい遺構が見られる。特に東側の堀はすごい!


<あわせて読みたいページ>


 「芳賀城」八木岡氏の本家、芳賀氏の居城。

 「下館城」戦国時代、この地ヘ進出した水谷蟠龍斎の居城。

 「八木岡五郎」ブログ「九鬼の響き」の記述。「太平記」に名前が残る八木岡五郎。


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